2023年3月期の有価証券報告書から、上場企業を対象に人的資本に関する情報開示が義務化されました。さらに2026年2月には内閣府令が改正され、2026年3月期からは経営戦略と連動した人材戦略や平均年間給与の増減率といった新たな開示項目が加わっています。
人的資本開示の制度は、単に投資家向けの情報提供にとどまるものではありません。人事担当者にとっては、自社の人材育成方針や社内環境整備の方針を改めて整理し、経営戦略との結びつきを明確にする機会でもあります。
本記事では、人的資本開示の義務化について基本的な仕組みを整理したうえで、開示が求められる項目の全体像、人事担当者が実務で押さえるべきポイント、さらに開示義務のない企業にとってのメリットまで、幅広く解説します。
人的資本開示の義務化とは
人的資本の情報開示とは、企業が保有する人材の価値に関する情報を、投資家をはじめとするステークホルダーに対して公開する取り組みです。ここではまず、人的資本の基本的な考え方と、開示が義務化された背景について整理します。
人的資本の意味と注目される背景
人的資本とは、従業員が持つ知識やスキル、経験、資質といった能力を、企業にとっての「資本」として捉える考え方です。従来、企業価値の評価は売上高や利益率などの財務情報が中心でしたが、近年はブランド力や技術力、そして人材といった無形資産の重要性が高まっています。
この流れを加速させたのが、ESG投資の拡大です。環境(Environment)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)の観点から企業を評価する投資手法が普及するなかで、「人材にどれだけ投資しているか」「従業員の多様性や働きがいをどのように確保しているか」といった情報が、投資判断の重要な材料として注目されるようになりました。
義務化の経緯と関連する制度
人的資本開示のグローバルな流れは、2018年に国際標準化機構(ISO)が発表した「ISO30414」から本格化しました。これは人的資本に関する情報開示の国際ガイドラインであり、人材マネジメントの11領域について定量的なレポーティングの基準を示したものです。
日本国内では、2020年に経済産業省が「人材版伊藤レポート」を公表し、人的資本経営の重要性を提唱しました。2022年5月には「人材版伊藤レポート2.0」が続き、同年8月には内閣官房が「人的資本可視化指針」を策定しています。こうした議論を経て、2023年1月に「企業内容等の開示に関する内閣府令」が改正され、2023年3月期決算から有価証券報告書における人的資本の情報開示が義務化されました。
対象となる企業の範囲
開示が義務づけられているのは、有価証券報告書を提出する約4,000社の上場企業です。具体的には、人材育成方針や社内環境整備方針の記載に加え、女性活躍推進法等に基づき公表している企業は、女性管理職比率・男性育休取得率・男女間賃金格差の3指標についても有価証券報告書に記載する必要があります。
一方、中小企業や非上場企業には法令上の開示義務はありません。ただし、採用競争力の向上や組織改善を目的として、自主的に人的資本の情報を発信する企業も増えつつあります。
開示が求められる項目の全体像
人的資本開示の項目は、法令で義務づけられた「法定開示項目」と、政府の指針で推奨されている「任意開示項目」に大別されます。それぞれの内容を把握したうえで、自社にとって必要な開示範囲を検討することが重要です。
法定開示が義務づけられた6項目
2023年の内閣府令改正により、有価証券報告書のなかで記載が義務づけられた項目は、大きく分けて6つあります。
まず、「サステナビリティに関する考え方及び取組」の新設セクションにおいて、人材の多様性を含む人材育成方針と社内環境整備方針を「戦略」として記載すること、そしてそれらに関連する指標を「指標及び目標」として記載することが求められます。加えて、「従業員の状況」セクションでは、女性管理職比率・男性の育児休業取得率・男女間賃金格差の3つの数値指標を記載する必要があります。
人的資本可視化指針が示す7分野19項目
法定項目とは別に、2022年8月に内閣官房が策定した「人的資本可視化指針」では、開示が推奨される7分野19項目が示されています。7つの分野は、育成・エンゲージメント・流動性・ダイバーシティ・健康と安全・労働慣行・コンプライアンスです。
たとえば「育成」分野では、リーダーシップ・育成・スキルと経験の3項目が設定されており、研修時間や研修費用、スキル向上プログラムの受講率といった定量データの開示が推奨されています。「エンゲージメント」分野では従業員満足度、「流動性」分野では採用・定着・離職率に関する情報が対象となります。
これらの推奨項目は法的な義務ではありませんが、投資家との対話を深めるための材料として、積極的に開示する企業が増えています。
2026年3月期から追加される開示事項
2026年2月20日に公布された内閣府令の改正により、2026年3月期の有価証券報告書からは、新たに3つの事項の開示が義務づけられました。
1つ目は、連結ベースの経営方針や経営戦略と関連づけた人材戦略の記載です。2つ目は、その人材戦略を踏まえた従業員給与等の決定方針の記載です。そして3つ目は、平均年間給与の前年度比増減率の開示です。
参照元:デロイト トーマツ グループ「人的資本開示 2026 府令改正・指針改訂の解説」
https://www.deloitte.com/jp/ja/services/audit-assurance/perspectives/human-capital-disclosure-2026.html
これまでの開示は「どのような方針を持っているか」を記載するものでしたが、今回の改正では「経営戦略とどのように結びついているか」「給与にどう反映されているか」という、より踏み込んだ説明が求められるようになりました。また、2025年12月には内閣官房・金融庁・経済産業省が「人的資本可視化指針(改訂版)」を公表し、経営戦略と人材戦略の連動について具体的な考え方やガイダンスを提供しています。
さらに、2027年3月期以降は、プライム市場上場企業を対象にSSBJ(サステナビリティ基準委員会)基準による開示が段階的に義務化される予定です。人的資本を含むサステナビリティ情報の開示は、今後ますます充実が求められる方向にあります。
人事担当者が押さえるべき実務対応のポイント
制度の概要を理解したところで、次に重要になるのは「実際に何をすればよいのか」という実務面での対応です。開示を義務的な作業として捉えるのではなく、自社の人材戦略を見直す契機として活用する視点が求められます。
経営戦略と人材戦略のストーリーをつなげる
2026年の改正で特に重視されているのが、経営戦略と人材戦略の連動です。単に人材育成方針や施策の一覧を記載するだけでは、投資家に対して説得力のある開示にはなりません。
具体的には、「自社の経営戦略を実現するためにどのような人材が必要なのか」「その人材をどのように育成・確保するのか」「施策の進捗をどの指標で測るのか」という一連のストーリーを組み立てることがポイントです。人的資本可視化指針(改訂版)でも、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標の4つの要素に沿った開示が推奨されており、この枠組みに沿って自社の情報を整理していくことが実務的な進め方として有効です。
開示に使えるデータの収集と整理
人的資本の開示を進めるうえで、多くの企業がつまずきやすいのが「どのようなデータを集めればよいか」という点です。特に推奨項目については、統一的な算定方法が定められていないため、自社の状況に合った指標を選び、経年で比較可能な形式で整理する必要があります。
まずは既存の人事データの棚卸しから始めることをおすすめします。すでに社内で管理しているデータのなかに、開示に活用できる情報が眠っていることは少なくありません。たとえば、研修の受講時間や受講率、一人当たりの研修費用、離職率、従業員満足度調査の結果などは、多くの企業で何らかの形で記録されているはずです。これらを開示項目と紐づけて再整理するだけでも、開示の準備は大きく前進します。
研修効果の定量化にテストを活用する
人的資本の開示において「育成」分野は特に注目度が高い領域です。研修時間や研修費用の開示は比較的対応しやすい一方で、「その研修でどれだけスキルが向上したか」「育成施策がどのような成果につながったか」を定量的に示すことは、多くの企業にとって課題となっています。
この課題に対して有効なのが、研修の前後にテストやアセスメントを実施し、スキルの変化を数値で把握する方法です。たとえば、特定のスキル領域について研修前と研修後でテストを実施すれば、平均スコアの変化を「研修効果」として定量的に示すことができます。こうしたデータは、「育成施策が実際に成果を上げている」ことを裏付ける有力な根拠となり、開示の説得力を高めます。
さらに、定期的にテストを実施することで、組織全体のスキルレベルの推移を経年で把握することも可能になります。人的資本の開示では、単年の数値だけでなく、長期的なトレンドを示すことがステークホルダーへの訴求力を高めるポイントです。研修の実施だけでなく「成果の見える化」まで踏み込むことが、これからの人的資本経営においてはますます重要になるでしょう。
開示義務のない企業にとってのメリット
法令上、人的資本開示が義務づけられているのは有価証券報告書を発行する上場企業ですが、中小企業や非上場企業にとっても、人的資本の可視化に取り組むことには明確なメリットがあります。
採用競争力の向上につながる
人材育成方針や研修制度、ダイバーシティへの取り組みといった情報を、自社のWebサイトや求人情報で積極的に発信することは、求職者からの信頼獲得に直結します。求職者にとっては、「入社後にどのように成長できるか」「どのような環境で働けるか」が企業選びの重要な判断基準になっています。
人的資本に関する情報を具体的な数値とともに公開している企業は、そうでない企業と比べて、採用市場における訴求力が高まる傾向があります。特に、研修制度やスキルアップの機会を数値で示せる企業は、成長意欲の高い人材にとって魅力的な選択肢となりえます。
社内の人材育成を見直す契機になる
人的資本の可視化に取り組む過程では、自社の人材育成施策を改めて棚卸しし、体系的に整理することが不可欠です。このプロセス自体が、これまで暗黙的に行われていた育成活動を客観的に見直す機会となります。
たとえば、研修の受講率や研修後のスキル変化を定量的に把握することで、「効果の高い研修」と「見直しが必要な研修」を区別できるようになります。限られた予算のなかで育成投資の効果を最大化するためにも、データに基づいた改善サイクルを構築することが重要です。開示義務の有無にかかわらず、人的資本の可視化は経営の質を高めるための有効な手段といえます。
人的資本開示の義務化でよくある質問
人的資本開示の義務化に関して、人事担当者から寄せられることの多い疑問について回答します。
開示しなかった場合の罰則はあるのか
有価証券報告書における法定開示項目を記載しなかった場合や、虚偽の記載を行った場合は、金融商品取引法に基づく罰則の対象となる可能性があります。一方、「人的資本可視化指針」で推奨されている7分野19項目については、開示しないという判断も認められています。ただし、その場合でも、開示しない判断を下した理由やその根拠について説明することが金融庁から期待されています。
開示項目の数値はどの程度の粒度が求められるのか
現時点では、開示項目の具体的な数値基準や統一的な算定方法は定められていません。開示内容の設計には一定の裁量が認められており、自社の経営戦略に沿った指標を選ぶことが推奨されています。ただし、単年の数値だけを記載するのではなく、経年での推移が比較できる形式で開示することが、投資家との対話においてはより効果的です。開示の初年度は、まず現状のデータを整理し、翌年以降に比較可能な形で拡充していくという段階的なアプローチも現実的な選択肢です。
ISO30414の認証を取得する必要はあるのか
ISO30414は人的資本の情報開示に関する国際的なガイドラインですが、日本の法令上、その認証取得は義務ではありません。ただし、ISO30414は人材マネジメントの11領域にわたる58の測定基準を定めており、自社の開示項目を検討する際の参考として活用できます。グローバルに事業を展開する企業や、海外の投資家との対話を重視する企業にとっては、ISO30414に準拠した開示を行うことが信頼性の向上につながる場合もあります。
まとめ
人的資本開示の義務化は、2023年の制度開始を皮切りに、2026年の内閣府令改正を経てその範囲が着実に拡大しています。経営戦略と連動した人材戦略の記載や、平均年間給与の増減率の開示が新たに求められるなど、企業に対する要求水準は年々高まっています。
人事担当者にとって重要なのは、開示を単なる制度対応として捉えるのではなく、自社の人材戦略を見直し、経営と結びつける機会として活用することです。特に「育成」分野の開示では、研修の実施状況だけでなく、テストやアセスメントを活用してスキルの変化を定量的に示すことが、説得力のある開示を実現するポイントとなります。
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