近年、採用、配置、評価、育成といった人事領域において、データを活用した「科学的人事」への関心が高まっています。科学的人事は、経験や勘に頼るのではなく、データやエビデンスをもとに人材マネジメントを行うアプローチです。科学的人事を活用することによって、従業員の行動や思考傾向、業績との関係を可視化し、経営判断やマネジメントの質を高めることができます。本稿では、科学的人事が注目される背景から、導入メリット、活用データ、事例、注意点までを網羅的に解説します。
目次
科学的人事とは何か?
従来型の人事との違い
科学的人事とは、感覚や経験に頼っていた従来の人事手法に代わり、データやエビデンスに基づいて人材の採用・配置・育成・評価を行う新たなアプローチです。人事領域におけるデジタルトランスフォーメーション(人事DX)の一環として注目されており、「ピープルアナリティクス(People Analytics)」とも呼ばれます。定量データ(勤怠・業績など)と定性データ(面談記録・サーベイなど)を統合的に活用し、より的確で納得感のある意思決定を支援します。現在では大手企業を中心に導入が進み、中小企業でもツール活用によりスモールスタートが可能になっています。
ピープルアナリティクスとの関係
科学的人事とピープルアナリティクスは、ほぼ同義で用いられる場合も多いですが、厳密には「ピープルアナリティクス」は人材に関するあらゆるデータの分析手法そのものを指します。一方、「科学的人事」はピープルアナリティクスを含めた概念であり、データ分析だけでなく、それをもとにした施策立案やマネジメントの実行までを含むより広い枠組みといえます。つまり、ピープルアナリティクスは科学的人事を支える“技術的な柱”の一つとして位置づけられています。
注目される背景と導入企業の増加
近年、科学的人事が注目されている背景には、リモートワークやジョブ型雇用など、働き方の多様化や人材の流動性の高まり、人的資本の情報開示といった社会的要請があります。従業員の満足度やエンゲージメント、キャリアの希望など、複雑かつ主観的な要素をデータで捉えることが求められるようになりました。加えて、リモートワークの普及により、マネジメントの“見えにくさ”が増したことも一因です。こうした流れを受けて、国内外の先進企業がピープルアナリティクスの導入を進めており、HR(Human Resource)Technology市場の拡大とともに中小企業にも普及が広がりつつあります。
科学的人事のメリットとは
科学的人事を導入することで、属人的な判断から脱却し、組織全体の意思決定を客観的かつ透明性の高いものに変えることができます。特に、採用や評価、配置、育成といった人事領域において、従業員データの活用がもたらすメリットは多岐にわたります。人事DXが加速する中で、科学的人事は単なる“流行”ではなく、戦略的な人材活用の基盤として機能しています。以下では、その代表的なメリットを具体的に見ていきましょう。
人材配置の最適化
科学的人事では、性格診断や適性検査、スキル評価などを通じて、従業員の特性や強みを「見える化」できます。これにより、単なる印象や履歴書の情報だけでは分からなかった“適職性”が明らかになり、より的確な職務配置が可能となります。たとえば、数値分析に強い人材を営業戦略立案に配置するなど、成果に直結する配属がしやすくなります。個々の能力を最大限に発揮できる環境が整えば、パフォーマンスの向上と同時に従業員満足度の向上にもつながります。
離職率の低下とエンゲージメント向上
勤怠の変化やエンゲージメントスコアの低下、サーベイ結果などから離職リスクを早期に把握することができます。たとえば、残業時間が急増している、出勤頻度が不安定になっているといった行動パターンは、疲弊やモチベーションの低下のサインかもしれません。科学的人事ではこれらのデータを蓄積・分析し、退職リスクのある社員に対して早期の面談や業務負荷の調整を行うことで、未然に離職を防ぐ取り組みが可能になります。
評価の透明性と納得性の確保
従来の人事評価制度では、評価者の主観や個人差が大きく、被評価者からの不満が生まれやすいという課題がありました。科学的人事では、業績データや行動指標、360度評価などを組み合わせた多面的な評価が可能となり、判断の透明性と納得感が高まります。また、評価のばらつきやバイアスの傾向を可視化することで、制度そのものの改善にもつなげられます。結果として、公平な評価は従業員のエンゲージメントや定着率の向上にも貢献します。
人事評価における落とし穴とその対策についての詳しい説明は『人事評価で陥りがちな落とし穴とその対策』を参考にしてください。
育成とキャリア支援の質向上
従業員一人ひとりの成長傾向やスキルギャップを可視化することで、画一的な育成ではなく、個別最適な支援が可能になります。たとえば、「論理的思考は強いが発信力に課題がある」といった分析結果が得られれば、ピンポイントでの研修設計やオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)の強化が行えます。また、本人のキャリア志向ともデータを連携させることで、“やらされ感”ではなく“納得感”のある成長支援につなげられるのも、科学的人事の大きな強みです。
人的資本開示に必要なデータ基盤と説明責任を支える
2023年3月期以降、有価証券報告書において上場企業に対し「人的資本に関する情報開示」が義務化されました。人的資本開示とは、企業が従業員への投資や人材戦略に関する情報を、社外に対して定量的に開示する取り組みです。開示項目には、スキル開発の実績、エンゲージメントなど、従来の属人的な人事運用では対応が難しい内容も含まれています。そこで注目されるのが科学的人事です。人事データを整備・分析し、スキルや配置履歴、評価、定着率などを可視化することで、定量的で再現性のある「説明責任」を果たすことができます。科学的人事は、人的資本を経営資源から“戦略資産”へと昇華させる基盤となりうるのです。
ジョブ型雇用の実現に向けた職務と人材の可視化を推進
また、最近企業の間で導入が進んでいるジョブ型雇用においても、科学的人事は大きな力を発揮します。ジョブ型雇用では、職務ごとに求められるスキルや成果指標が明確に定義されるため、人材と職務のマッチング精度が制度運用の成否を左右します。科学的人事を活用することで、従業員の適性やスキルセット、経験などを定量的に把握し、それを職務要件と照合して配置判断に活かすことが可能になります。また、職務単位での成果管理にも科学的人事の仕組みは有効で、目標達成度や貢献指標をもとにした公平な評価制度の基盤にもなります。ジョブ型雇用の導入・定着を支える“見える化”の仕組みとして、科学的人事は不可欠です。
科学的人事を実現するための主な手法とデータ活用例
科学的人事を機能させるうえで最も重要なのは「どんなデータを使うか」です。人事部門にはすでに多くの情報が蓄積されていますが、それを戦略的に活用できている企業はまだ限られています。科学的人事では、定量・定性の両面から従業員を理解し、統合的に分析することがポイントです。ここでは、活用される主な人事データの種類と、注目される考え方である「ピープルインサイト」について紹介します。
評価や勤怠などの“ハード”データ
ハードデータとは、数値として管理されている定量的な情報を指します。これらは日常的に蓄積されやすく、分析のベースとして非常に有効です。たとえば、業績と評価スコアの相関を見ることで、評価制度の妥当性を検証したり、勤怠とエンゲージメントの関連を分析することで、メンタルヘルスリスクの予兆を察知したりすることも可能です。ハードデータの代表的なものに、勤怠記録、残業時間、評価スコア、売上実績、資格取得数などが挙げられます。
資格、研修のチェックテストや評価スコアとして使えるツール:ラクテス

ラクテスは、オンラインでのテスト作成・受験が可能なツールです。業務に対する理解度や専門知識の有無などをテストすることで、人事評価に客観的な視点を取り入れることができます。「評価基準を作るのが難しい」という方でも、あらかじめ用意されているサンプルのテストを使えばすぐにスキルのチェックができます。
アンケートや面談メモなどの“ソフト”データ
ソフトデータとは、従業員の感情や価値観、職場環境に対する満足度など、定性的な情報を指します。エンゲージメントサーベイの自由記述、1on1の面談記録、自己申告によるキャリア希望などが代表例です。これらは数値化が難しいため活用が進んでいない企業も多いですが、テキストマイニングや自然言語処理の技術を用いることで、傾向分析や感情の可視化が可能となり、人事施策の意思決定に深みを加える材料となります。
最近注目の「ピープルインサイト」って?
ピープルインサイトとは、複数の人事データを組み合わせ、従業員一人ひとりの特性や傾向、変化を深く理解しようとするアプローチです。たとえば、性格診断と勤怠、サーベイ、上司からの評価を統合して分析することで、「なぜこの人が成果を出せているのか」「どうすればこの人が伸びるか」が見えてきます。単一データでは捉えきれない“人の本質”に近づけることが、科学的人事の大きな可能性であり、企業の競争力にも直結します。
導入ステップと実践ポイント
科学的人事を成功させるには、単にツールを導入すれば良いというわけではありません。まずは自社の課題と向き合い、目的を明確にしたうえで、段階的かつ戦略的に導入を進めることが重要です。また、人事DXの文脈で語られる通り、データ整備・分析体制の構築も欠かせません。以下に、代表的な導入プロセスを4つのステップでご紹介します。
ステップ1:目的と課題の明確化
科学的人事を始める第一歩は、「何を解決したいのか」を明確にすることです。たとえば離職率の低下を目指す場合は、勤怠データ、エンゲージメントスコア、退職者アンケートなどの時系列データが重要で、傾向分析や予測モデル(回帰分析など)が有効です。
一方、配置の最適化が目的であれば、適性検査の結果、スキル評価、職務満足度などが鍵となり、クラスタリングや適職マッチング分析が役立ちます。
さらに、評価の公平性向上を狙う場合は、評価分布の傾向や評価者ごとのばらつきを分析し、バイアス検出や分散分析などを活用します。
これらのように、目的によって必要なデータや分析手法は異なります。課題が曖昧なままだと、せっかくデータを収集しても活用しきれず、社内にも浸透しません。KPI(Key Performance Indicator)設計や導入目的の共有を最初に行うことで、プロジェクトの方向性がぶれずに済みます。

ステップ2:データの整備と基盤構築
次に行うべきは、社内にすでに存在している人事データの棚卸です。評価記録、勤怠、異動履歴、サーベイ結果など、分散された情報を整理・統合し、分析可能な形に整備する必要があります。この段階では、「どのデータが信頼できるか」「データ取得の頻度は適切か」といった観点での見直しも重要です。データベースやHRシステムの一元化を進めることで、分析の精度と効率が格段に高まります。
ステップ3:ツール導入とスモールスタートによる実装
目的とデータの準備が整ったら、ツールの選定に移ります。タレントマネジメントシステム、BI(ビジネスインテリジェンス)ツール、適性診断ソフトなど、自社の課題に合ったソリューションを選ぶことが重要です。最初から全社展開するのではなく、1部署や1テーマに絞ったスモールスタート(PoC:概念実証)を行うことで、リスクを最小限に抑えながら効果を確認できます。運用における課題の洗い出しにも有効です。
ステップ4:成果測定、全社展開とPDCAサイクルの運用
スモールスタートで一定の成果が得られたら、他部署への横展開や全社導入に進みます。この段階では、効果測定と改善サイクル(PDCA)の構築が鍵となります。「どんなデータが最も役立ったか」「どこで運用がつまずいたか」などを分析し、運用フローや体制を見直していきましょう。また、導入成果を社内に“見える化”することで、経営層や現場の理解と巻き込みが進みやすくなります。
導入における課題と注意点
科学的人事は多くのメリットをもたらす一方で、導入にあたっては慎重に対処すべき課題も存在します。特に、データ基盤の未整備、現場との温度差、プライバシーへの配慮などを怠ると、期待した効果が得られないだけでなく、社員の信頼を損なうリスクすらあります。ここでは、科学的人事を導入・運用する際に注意すべき4つの代表的なポイントを紹介します。
データ整備・セキュリティの問題
人事データが部門ごとに分断されていたり、記録のフォーマットが統一されていなかったりする企業は少なくありません。こうした状態では、十分な分析ができず、科学的人事の効果を実感しにくくなります。特に複数の拠点や事業部を持つ大企業では、HRデータの一元管理が大きな課題となります。導入初期段階から、システム連携やデータ構造の標準化を意識した設計が求められます。
現場の理解と巻き込み方
データ分析は非常に有用な手段ですが、それが全てになってしまうと、現場の“肌感覚”や個々の状況が見えづらくなります。例えば、数値上はパフォーマンスが低く見えても、職場の雰囲気を良くしている貢献者がいることもあります。科学的人事の本質は「人を見る力を補完する」ことであり、「人を測るだけ」の取り組みにならないよう、現場の声を継続的に拾い上げる仕組みが必要です。
評価基準のバランスと倫理的配慮
性格診断やストレスチェック、面談内容の分析など、個人に深く関わるデータを扱う場合、従業員のプライバシーへの配慮が不可欠です。取得時の目的の明示、同意の取得、分析対象の明確化、そして匿名化などの施策を講じる必要があります。これらが不十分だと、信頼関係を損ね、社員の心理的安全性を脅かすことにもつながりかねません。透明性をもった説明と運用体制の整備が前提となります。
ブラックボックス化のリスク回避
科学的人事は、あくまで「組織と個人をよりよくするための手段」であるというメッセージを、現場にしっかり伝えることが重要です。突然評価制度にデータが使われると、「監視されている」「機械的に判断されるのでは」といった不安が生じやすくなります。そのためには、導入の背景や活用範囲、期待される成果を丁寧に共有し、質問や不安に対する対話の場を設けることが欠かせません。
科学的人事を支える注目ツール・サービス一覧
タレントマネジメントSaaS
タレントマネジメントツールは、従業員のスキル、評価、経歴、異動履歴などの情報を一元的に管理し、最適な配置や育成施策を実現するためのSaaS型サービスです。代表的なツールには「タレントパレット」「カオナビ」「HRBrain」などがあり、評価制度との連携、人材データの可視化、育成計画の立案まで幅広く対応可能です。特に、定量・定性の情報を組み合わせた「人材の見える化」によって、科学的人事の実践を支える基盤として多くの企業で導入が進んでいます。
BI/ダッシュボードツール
BIツールは、人事データを視覚的に分析・共有するために活用されるソリューションです。代表的なBIツールには「Tableau」「Power BI」「Looker」などがあり、複雑なデータもグラフやダッシュボードで直感的に把握できるのが特徴です。科学的人事の導入においては、離職傾向や人材構成、評価のばらつきといった傾向をリアルタイムで可視化できるため、現場や経営層とのコミュニケーションにも大いに役立ちます。
ピープルアナリティクス
ピープルアナリティクスサービスは、従業員の心理傾向や価値観、エンゲージメントなどの“見えにくいデータ”を定量化・可視化することに特化したサービスです。「wevox」「ミツカリ」「Attuned」などが代表的で、サーベイや性格診断をもとに組織の相性やストレス傾向を可視化します。これらのサービスは、1on1の質の向上やマネジメントスタイルの最適化、離職予兆の把握といった領域で活用されており、科学的人事の“深さ”を支える重要な存在といえます。
科学的人事の導入事例
大手企業における活用事例
株式会社サイバーエージェントでは、社員のコンディションを可視化するために「GEPPO」という月次アンケートを開発・運用しています。GEPPOは、全社員が毎月回答するアンケートで、自身の働き方やチームの状態について、5段階での自己評価に加えて、毎月異なるフリーコメントの設問から成ります。この主観的なデータは、勤怠や業績などの客観的データと組み合わせて分析され、人事や上司がコンディションの変化に早期に気づき、必要なフォローにつなげるために活用されます。GEPPOは、人事データ活用のスモールステップとして科学的人事の土台を支えており、今後は入社した人、内定承諾した人の採用面接での評価と関連付ける方針で展開する予定です。
(参考)「業績貢献できる人事になる」ためのCA人事データ活用法とは
中小企業のスモールスタート事例
西機電装株式会社では、生産管理システムの導入に失敗した経験から、まずは総務部門で使用する人事台帳アプリを自社開発しました。このアプリは、サイボウズのkintoneを活用しており、標準機能だけでは実現できない部分は自社でカスタマイズを行いました。さらに、社員の心理的抵抗を減らすために、弁当発注アプリや体温記録アプリなど、身近で効果が実感しやすいアプリの導入から始め、徐々にkintoneの操作に慣れてもらう取り組みを行いました。このようなスモールスタートにより、社員の抵抗感を和らげ、全社的なDX推進へとつなげています。
これからの人事はどう変わる?
科学的人事の普及は、単なる人事業務の効率化や可視化にとどまりません。今後は、人事が経営と深く結びつき、企業戦略において中核的な役割を果たすようになると考えられます。人材を“資源”ではなく“資本”として捉える「人的資本経営」の流れとも連動し、人事部門にはより高度な判断力と戦略性が求められる時代が訪れています。以下では、科学的人事がもたらす未来像について、3つの視点から見ていきます。
戦略人事への進化
これまで人事は「管理部門」として扱われがちでしたが、今後はデータを根拠に経営に提言できる“戦略パートナー”としての立場が強まります。たとえば、「どの部署にどんな人材を配置すれば業績が上がるか」「次のマネジメント候補は誰か」といった意思決定に対し、感覚ではなくファクトベースで関与できるのが科学的人事の強みです。経営戦略と人材戦略の連動は、今後の企業競争力の差を分ける鍵となります。
人材の可視化から「活性化」へ
従来の人事は「評価する」「管理する」といった視点が強く、どちらかというと統制型のマネジメントでした。今後は、従業員一人ひとりの特性を理解し、どうすればその人の強みを活かして組織に貢献できるかという“活かす視点”への転換が求められます。科学的人事は、データに基づいて適性やキャリア志向を把握できるため、よりパーソナライズされた育成・配置が可能になり、従業員満足度やエンゲージメントの向上にもつながります。
人事に求められるスキルの進化
科学的人事の推進により、人事担当者に求められるスキルも大きく変化していきます。従来の労務・採用業務の経験に加えて、データ分析リテラシー、BIツールの操作スキル、分析結果をわかりやすく伝える“翻訳力”が必要になります。また、AIやHRテクノロジーとの連携により、人事が新たな業務設計者としての役割を担う場面も増えるでしょう。人事の専門性は、より“戦略的かつ横断的”なスキルセットへと進化していきます。
科学的人事で人を活かす時代へ
科学的人事は、感覚や経験に頼らず、データとエビデンスに基づいて人材マネジメントを行う新しい手法です。段階的に科学的人事の導入を進め、最終的には採用・配置・育成・評価のあらゆる場面で活用が進み、離職防止や組織力の強化に寄与することを目指します。科学的人事の導入が進むことで、「人を活かす」人事部門の役割は戦略的な領域にまで進出するようになり、経営と並走する存在として企業価値の向上に直結するようになっていくことが予想されます。